Japanese/English

Jul 22, 2009

色々ありました。

毎回が久しぶりの投稿です。
色々あったのでとりあえずメモ的に羅列します。
完全に終わってるオナニーブログです、切腹。

一年目終了。
いまさらですが、AAでの一年目がこないだ終わりました。
建築的な言語を使いつつ遊ばせてもらったといった感じの一年目でしたが、
気づくと色んなツールを自然と使いこなせるようになっていた気がします。
ようやく建築的な考え方が頭でなく感覚的に理解できるようになってきたと思う。

色んな大学の卒展的なものに行く。
UEL、バートレット、RCA、セントマ、キャンバーウェル、チェルシー、ウェストミンスターの卒展をまわる。
全体的に新鮮味がなくなっているのは、僕側の問題でしょうか。
UELでは橋村が一位に選ばれ、フィーチャーされてました。彼はできる子です。
バートレットの展示はただただ楽しい。
作品にはワーク量とそのつらさが滲み出てますが爆。
でもやっぱり楽しい。

スイスらへんから色んな人が来た。
リヒテンシュタインやら、スイスのETHやメンドリシオやら辺りの日本人の方々が沢山ロンドンにきました。
彼らの建築を見る視点は、やはりAAのそれとは全然違っていて、そこは自分で鍛えていかないといけない。
建築を建築としてみる誠実で真摯な態度といえばよいのか。
ただそれはAA的な考え方と両立できるものだと思う。
だって階層が違うから。
両方獲得すべし。
大いなる刺激。

EDAWの鈴木卓さんにインタビューする。
ランドスケープ的思考法に触れる。
g86に近日中にアップしなければ。

学校終わってアホみたいに本読みまくる。
ボードリヤール、柄谷行人、ベンヤミン、バシュラール、チュミ、レム、ユリイカ、ポー、ボルヘス、サリンジャー、篠原一男、ハイデガー、デリダ、思想地図、宮台、多木浩二、中上健次、ルフェーブル、難波和彦、アダム・カルーソ、長谷川尭、春樹、カルヴィーノ、カフカ、磯崎。
色々浴びすぎてATフィールド崩壊するも、それぞれの中に共振部分を見出して脳内で再構築していく。
循環、痕跡、周期、群集をキーワードに色々書けそうな気がします。
総じて語るのは無理&めんどくさいのですこしずつ整理してアウトプットしていきたい。


RIBAでオルジアッティの展示を見る。
とある文章が心に響く。

-Of course, it would be best if I could overcome these images and the tradition I was raised in, and my architecture could become non-referential and completely independent. I am aware however, that this is not possible. Nonetheless, I try to do so, time and again. This contradiction drives me to think my idea constantly, in order to design architecture that ultimately is 'only' abstract.- 

彼の循環的な思考法は極めて現代的で共感できる。
あらゆるダイコトミーを個人の中で抱えながら、その対立をあえてドライブすることで見えてくるもの。
そのダイコトミーが彼にとってはリファレンスの有無。
対立する概念のどちらかを盲目的に信仰するでもなく、無理に排除するでもなく、
その対立をドライブさせて止揚させる。

柄谷行人は「隠喩としての建築」の冒頭で磯崎新を
「近代と建築への批判を考えながら、同時に建築への意志を貫徹しようとする一人二役」
と称し、また読者に
「大文字の建築を否定しながら、なお建築的であろうとする人たち、大文字の主体を否定しながら、なお差異としての主体たらんとする人たち」
と呼びかける。

磯崎の時代と違って、現代はもっとあらゆる対立が収束している時代。
あるいはあらゆる対立が無効になっている脱構築の時代。

だったら自分でバネを伸ばして飛ばなきゃならない。

宮台的にいうなら、恣意性を自覚しながらなおコミットメントしていくこと、全体を部分に対応させつつもなお全体を志向すること。



他にも色々ありましたがちょっと書くのが面倒になったのでやめます笑。
ただ要するに気合が降臨してます。


今の僕は例えるなら耳をすませばの雫ちゃん状態です。


物語がかけそうな気がします。



 

contact / tumblr / twitter