Japanese/English

Dec 15, 2009

Inverse space.



左側に屹立するのは建物ではなく、中身をくり抜かれて残ったファサード。
そしてこれはその内側からの光景。
広い敷地の真ん中にぽつんと建つ教会。
窓、ドアはすべて塞がれ中には入れない。
ロンドンの建築更新の裏側。


Dec 13, 2009

ロンドンで最も細い道。

ロンドン市街で一番細い、とされている道。
そして僕の今のサイト。舞台。
最狭幅、約80cm。

日本のようにいちいち建物の間に隙間がないこの国では結構珍しい光景。
でも日本の隙間みたくデッドスペースにはなっていなくて、この幅でも奥にパブもあって結構な人が行き来している。
こんな細い隙間でも外部感がしっかりしている。
芦原義信的に言えばゲシュタルト質がある。
煉瓦としっかりした舗装と照明と通り名の看板のせいだろう。







金曜の晩は便所と化す。


 

散策



Juryが昨日ようやく終わって、自由を今しみじみと感じています。
引越してから忙しくてできなかったけど、今日は近所をぶらぶら散策してみた。
土曜日のポートベローは人が多くて疲れるけど、アンティークを見て回るのは楽しい。
古いカメラなんかを見るのは特に楽しい。
そしてアフリカの謎の木彫りの置物の品揃えの充実っぷりは異常。

そんなポートベローの路角にAll Saintsが新しく入っていた。
All Saintsはイケてる洋服屋です。高いので手は出ませんが。眼球で舐めまわすのみです。
ウィンドウにぎっしり並べられたアンティークなミシン達。ミシンかっけーす。
東の写真でRivington Placeで同じような展示をやっていたのを見た気がする。






横道に額縁屋を発見。Lacy Gallery。
額縁屋って初めて入ったんですが、あれですね。不思議な感じですね。
額縁は額縁だけの時が一番魅力的なのではなかろうか。

絵のない額縁は脳が勝手に盲窓に変換してしまう。
壁にぎっしり並べられた額縁はこちらを見つめているような、それとも何かに通じさせているような。
ちょうど今僕がテーマにしてるラカンがいうところのobjet petit aを大量に発している。
絵の周縁にあって人に何かを見させるための'よすが 'としての洗練された「装置」。
僕はこの壁を見て欲望します。

地下にはさらに大量の額縁。


そういえば塩田さんの作品でこんなものがあった。
Chiharu Shiota - Room of Memory, 21st Century Musuem of Contemporary Art, Kanazawa

shiota chiharu
Shiota Chiharu

その額縁屋の前の通りの入り口にかかった門。
近しいものを感じる。




画像を多用するとブログらしい笑。

Aug 5, 2009

Antichrist

ラース・フォン・トリアーのAntichristを見てきたのでメモ。
色んな意味で忘れられない映画になった。

以下、ネタばれあり。

大荒れの記者会見やら、散々な評価を予習してから見に行ったので、どうなることやらと思ったが個人的にはかなり楽しめたと思う。
大方の批評の的である暴力的な描写は確かに凄かった。
ミヒャエル・ハネケもギャスパー・ノエもびっくりの容赦ないもので最後の方はあまりの生々しさにむしろ逆に面白くなって吹き出しそうになる。
グロシーンの度に会場からはどよめきが。中には帰る人も。
後ろのお兄ちゃんは小声でfuckとjesusを連呼していた。

・ダンサー・イン・ザ・ダークでパルムドールを受賞したトリアー。
手持ち撮影、編集禁止などの独自のドグマに従って撮られたイディオッツはなかなか衝撃だった。
イディオッツやダンサー~ほどラフな手持ちではないものの、通常のラフな揺れを持った撮影と冒頭のキメキメのモノクロの回想シーンのコントラストがよく働いていた。このコントラストは「ダンサー~」の手持ちvsミュージカルにもいえる(浅田彰)。
今回は今までの彼の作品にはなかったCGを実験的に多用している。

・ヘンデルの「私を泣かせてください」が利いている。

・「タルコフスキーに捧ぐ」と最後に出てくるが、森の中の小屋、ノスタルジックな映像美や音響の使い方、個人の精神世界が象徴的な超常現象として現れてくるところに、特に「鏡」辺りへの影響・オマージュが見られる。
個人の精神が自然世界に象徴的にシンクロしていくあたりは村上春樹及びセカイ系に通ずるものがある。
象徴的な動物の登場も春樹的。ラカン辺りを勉強したくなる。
CG満載の映像による幻想的な森や緑との同化など、妻の精神世界の中だけの現象だったものが徐々に表層化していき、蠢く森、サブリミナル的に窓に映る女の顔など、妻の精神世界を描写しているものなのか、現実のものなのか判別できない曖昧なものに変わっていく。
自然>彼女なのか彼女>自然なのか、どちらが修羅の元なのか読み解けないヒエラルキーのない微妙なバランスがよいと思う。
エデンの森に着いて以降、妻の精神世界にシンクロする自然を夫を通して観客は体験していく。
最終的に夫は妻の「evil」に「感染」する。
夫が最後に見た顔のない裸の女性の群れは一体何を象徴しているのか。

・息子の死によって精神を病んだされていた妻だったが、かつて妻が息子とgynocideの論文を執筆した小屋でセラピーをする中で、夫はその以前から妻が女性=悪というgynocide的妄想を抱き精神を病んでいたことを知る。クリトリスの切除はその象徴的な行為。また検死によって判明した息子の足の骨の変形は妻がブーツを逆に履かせていたためであると道具小屋にあった写真から判明(鳥肌)。足の変形は窓からの転落と繋がってくる(そういえば転落時の映像で息子の足が奇妙に開いていたような気もするが記憶が不確か)。終盤のクライマックスでの転落の回想シーンでは冒頭のそれにはなかった、妻がはっきりと息子の転落を見つめている冷ややかな表情が映される(これはもしかしたら妻か夫の捏造された記憶かも知れない)。個人的にはこの時の妻の表情と、ブーツを逆に履いた息子と一緒に写る妻の表情の方が暴力シーンなんかよりよっぽど怖かった。


結果的にいうと個人的にはかなり高評価だが、お勧めはかなりできない。


 

Jul 22, 2009

色々ありました。

毎回が久しぶりの投稿です。
色々あったのでとりあえずメモ的に羅列します。
完全に終わってるオナニーブログです、切腹。

一年目終了。
いまさらですが、AAでの一年目がこないだ終わりました。
建築的な言語を使いつつ遊ばせてもらったといった感じの一年目でしたが、
気づくと色んなツールを自然と使いこなせるようになっていた気がします。
ようやく建築的な考え方が頭でなく感覚的に理解できるようになってきたと思う。

色んな大学の卒展的なものに行く。
UEL、バートレット、RCA、セントマ、キャンバーウェル、チェルシー、ウェストミンスターの卒展をまわる。
全体的に新鮮味がなくなっているのは、僕側の問題でしょうか。
UELでは橋村が一位に選ばれ、フィーチャーされてました。彼はできる子です。
バートレットの展示はただただ楽しい。
作品にはワーク量とそのつらさが滲み出てますが爆。
でもやっぱり楽しい。

スイスらへんから色んな人が来た。
リヒテンシュタインやら、スイスのETHやメンドリシオやら辺りの日本人の方々が沢山ロンドンにきました。
彼らの建築を見る視点は、やはりAAのそれとは全然違っていて、そこは自分で鍛えていかないといけない。
建築を建築としてみる誠実で真摯な態度といえばよいのか。
ただそれはAA的な考え方と両立できるものだと思う。
だって階層が違うから。
両方獲得すべし。
大いなる刺激。

EDAWの鈴木卓さんにインタビューする。
ランドスケープ的思考法に触れる。
g86に近日中にアップしなければ。

学校終わってアホみたいに本読みまくる。
ボードリヤール、柄谷行人、ベンヤミン、バシュラール、チュミ、レム、ユリイカ、ポー、ボルヘス、サリンジャー、篠原一男、ハイデガー、デリダ、思想地図、宮台、多木浩二、中上健次、ルフェーブル、難波和彦、アダム・カルーソ、長谷川尭、春樹、カルヴィーノ、カフカ、磯崎。
色々浴びすぎてATフィールド崩壊するも、それぞれの中に共振部分を見出して脳内で再構築していく。
循環、痕跡、周期、群集をキーワードに色々書けそうな気がします。
総じて語るのは無理&めんどくさいのですこしずつ整理してアウトプットしていきたい。


RIBAでオルジアッティの展示を見る。
とある文章が心に響く。

-Of course, it would be best if I could overcome these images and the tradition I was raised in, and my architecture could become non-referential and completely independent. I am aware however, that this is not possible. Nonetheless, I try to do so, time and again. This contradiction drives me to think my idea constantly, in order to design architecture that ultimately is 'only' abstract.- 

彼の循環的な思考法は極めて現代的で共感できる。
あらゆるダイコトミーを個人の中で抱えながら、その対立をあえてドライブすることで見えてくるもの。
そのダイコトミーが彼にとってはリファレンスの有無。
対立する概念のどちらかを盲目的に信仰するでもなく、無理に排除するでもなく、
その対立をドライブさせて止揚させる。

柄谷行人は「隠喩としての建築」の冒頭で磯崎新を
「近代と建築への批判を考えながら、同時に建築への意志を貫徹しようとする一人二役」
と称し、また読者に
「大文字の建築を否定しながら、なお建築的であろうとする人たち、大文字の主体を否定しながら、なお差異としての主体たらんとする人たち」
と呼びかける。

磯崎の時代と違って、現代はもっとあらゆる対立が収束している時代。
あるいはあらゆる対立が無効になっている脱構築の時代。

だったら自分でバネを伸ばして飛ばなきゃならない。

宮台的にいうなら、恣意性を自覚しながらなおコミットメントしていくこと、全体を部分に対応させつつもなお全体を志向すること。



他にも色々ありましたがちょっと書くのが面倒になったのでやめます笑。
ただ要するに気合が降臨してます。


今の僕は例えるなら耳をすませばの雫ちゃん状態です。


物語がかけそうな気がします。



 

May 31, 2009

アイスのてんぷら。

最近、オキシモロンが気になっている。

オキシモロン(oxymoron)とは要は相反する言葉の組み合わせ。
有名な例だとシェークスピアの'must be cruel to be kind'がある。

アンビバレントで詩的な感情を沸き起こす不思議な表現である。

単なるレトリックと考えれば、冷たい太陽、優しい死刑台、芳香なうんこ、など無数につくることができるが、中には一見矛盾するように見えても論理的に正しいものがある。例えば、ソクラテスの「無知の知」などがそうだが、その中でもとっておきのベストオキシモロン賞がこちら。


我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じるチームワークだけだ。


荒巻課長、まじおきしもろいです。
あるものとそれをメタに捉えた時の、レイヤーが違うふたつの対象の形容の組み合わせ、というオキシモロンパターンが自分的に壷だが、最初からありえない組み合わせのオキシモロンも詩的で好きです。

戦う女子高生的なモチーフにも通ずる脳内麻薬タイプ。


さて、課題。




 

May 10, 2009

Roni Horn / Amerika


PCがいかれてマックなのにウィンドウズしか起動しなくなった。シュール。

テートモダンでRoni Hornを見てきた。
名前は聞いたことあったがずっと写真の人だと思っていた。
初期のミニマリズム的立体作品から90年代に入ってからの写真作品群、ドローイング等幅広いメディアを使っているが、基本的に文学からインスピレーションを受けたナラティブなコンセプトが根底にある模様。作品中に詩の引用などのテキストが多く使われている。

個人的には部分部分がナンバリングされてコラージュによってコンポジションが検討されているドローイングがヒット。

ガラスの彫刻ピンクトンが鬼かっこいい。

ピンクトン。

ん。

図書館で借りたカフカのアメリカ(失踪者)をようやく読み終える。今やってる課題のために読んだのだけれども。
ちなみにカフカはアメリカに行ったことがない。
invisible cityにもいえることだが、自分が行ったこともない、情報も断片的な土地の物語を作るということは一体どういうものなのか。
情景と描写、どちらが先行するのだろう。





 

additive inverse


フォーサイス週間最後の作品、additive inverseを潰してきた。ちなみに無料。

水槽のような囲いの中に充満したスモークに天井に設置された3つのプロジェクターからそれぞれ円が投射され、三本の柱が少しずつずれたような詩的な光の軌跡が浮かび上がる。サーペンタインでやっていたAnthony McCallを思い出す。

その横で糸を自分の体に巻きつかせ拘束させながら、かつそこから逃れようともがいている様にも見えるパフォーマンス。最初、糸が細いのでパントマイムかと思ってしまったが本当に糸を使っていた。体に絡まったいまにも切れそうな糸をたくみに操り、その制約との関係性がそのままダンスになっているようで、単なる恣意的なダンス表現とは一線を画している。知的。インスタレーションとパフォーマンスの関係はよく分からないけれども、幻想的な光の輪が何か天国のメタファーのように思える。



AAの図書館でフォーサイスの本を見つける。いかにフォーサイスの出自がクラシックバレーにあるかがよく分かった。昔のギエムとの作品なんかをyoutubeで見ると、もっと今よりクラシックバレーに近くていかにバレーを解体、再構築しているかが分かりやすい。形式の使い方とその関係性のずらし方がまじポストモダンだなと帰りのバスでヴェンチューリのナショナルギャラリーの横を通り過ぎながらふと思う。ただありえない体軸の傾きや超速スピードの振り付けといった形式の増幅ドライブが逆に身体性を炙り出しているところには、ポストモダン建築的な単なる記号的転用とは違う正統性も感じられる。ビバ脱構築。現在のフォーサイスもかなり完成度マックスの洗練されたものだったが、90年代のフランクフルト時代の作品をタイムリーに見ていたらきっと殺傷能力抜群だったろう。


そして会場に馬鹿でかいスタイロ忘れる、まじフォーサイス。




 

May 4, 2009

フォー











久しぶりの更新。
怒涛の提出ラッシュが終わった途端、新しいプロジェクトが始まった中、澤田はフォーサイスに浮かれてます。


最近ロンドンでコンテンポラリーダンスの巨匠フォーサイスのイベントが数多く催されている。
本当はテートモダンの舞台に一番行きたかったのだけど、売り切れでいけず。
でも課題の合間を縫って舞台とインスタレーションを何個か見てきました。

You made me a monster/
観客も演者と同じ舞台上で鑑賞。観客が作った不可能な形をした骨格の彫刻の影のスケッチをダンサーが譜面に見立てて、即興でダンスに解釈し落とし込むというもの。おでこについたマイクから拾われるダンサーの声やマイクを直接たたく音にエフェクトがかけられて不穏な雰囲気が漂う。演者が観客の中を踊りながら縫うように通り過ぎて行くのは新鮮。でもちょっと異様で怖い。

decreation/
マイクの音にインタラクティブにエフェクトをかける手法はdecreationでも使われていてdecreationでは更に中央に置かれたプラズマに演者のカメラによって撮られた映像にエフェクトをかけたものがリアルタイムで写される。18人の演者の中で愛と嫉妬を中心にしたコミュニケーションが数珠繋ぎに連鎖していく。上下手に置かれた控え用の椅子から演じるダンサーだけが舞台の中心にでてきてダンスを演じる様子はからルーツバスケットを想起。日本人ダンサーの安藤さんが輝いていた。

Scattered Crowd/
キングスクロスの近くのおそらく元倉庫であろう建物を使っているのだが、すでにこの建物の廃墟オーラだけで逝きそうになる。風船をふたつつなげたものが大量に浮遊していて空間に充満している。ひとつひとつはかなりシンプルなものでも大量の反復によってある値を越すとランドスケープになる。天窓からの光とEkkehard Ehlersのアンビエントミュージックも相俟って昇天する。幸せになる。




ついでに最近見た他のものもメモ。


SHUNKIN / サイモン・マクバーニー

これは今まで見た舞台の中で一番よかったかも知れない。深津絵里を主演に谷崎の春琴抄、陰影礼賛を舞台化したもの。演出のサイモン・マクバーニーは以前にも村上春樹を演出している。舞台自体はとてもミニマルな構成で数本の棒切れだけ用いて木陰や襖などを表現していた。プロジェクターを使った演出も見ていて飽きない。
新聞に出ていたインタビューを読むと、脚本は最初書かずに演者に春琴抄を熟読させて、部分部分でエチュードをやらせてワークショップ形式で序所に脚本を構築させていったらしい。ブリコラージュ的か。

そういえば蜷川幸雄の十二夜も観劇しました。良質な舞台を格安で(そして円高で)見れるのはロンドンのいいところです。

Denise Scott Brown & Robert Venturi
ヴェンチューリがAAにレクチャーにしにきました。課題の提出の前日という嫌がらせとしか思えないスケジュールにもめげず参加してきました。
ヴェンチューリのレクチャーはとても短く、ほとんどの時間が今回AAから出したDenise Scott Brownのレクチャー(かなり長い)時間が割かれていたのだが、ともに面白く拝聴。普通に見れば明らかに美しくない様々な商業看板に冒された写真を見ながら「very beautiful」と言ってのけるのに驚く。
ともに影響を受けたり好きな写真をreferenceとして列挙していくレクチャー。オルジアティもそうであったが。

とういうことでtumblrはじめました。
ハッシーに教えてもらったのだが、ネットで見つけた気になった画像、文章などをどんどんストックしていける。今まで画像はハードディスクにぽんぽん放り込んでいたのだが、これは簡単にリンクで元の場所に飛べるがよい。デザイン&アート系ユーザーが多いように思える。ブログと比べると記事をつくる手間を省いただけのように思えるのだけど回数が増えるとその少しの手間の違いはだいぶでかい。

ヴェンチューリ再考週間はじめます。

Jan 2, 2009

小さな家での気づき













g86山道がコンペで大賞をとりました。素敵な作品です。
日新工業コンペ‘地球学校’ 大賞受賞!

渋谷の街の片隅に生える草むらに小さな家を置くことでそこに人間と自然の文字通り「縮図」を生み出して、見る人の思考を環境問題へと飛ばすという鮮やかな回答です。

家型と雑草がつくる緑豊かな小さな世界、ふとフォーカスを引くとその背後に荒んだ渋谷の街と片隅の雑草、人間と抑圧された自然との関係が浮かび上がる。
同じ雑草が同時に二つの演技をしているようで面白い。

はっとするようなスケールの齟齬による不思議な感覚って、おそらくその描かれたオブジェクトが現実のそれに近いもの、もしくは人の意識の中にある「原型」に近いものであればあるほど強くなるものだと思う。例えばロン・ミュエクを参照すれば分かりやすいけれど、あの場合人形を限りなくリアルにつくりこむことで造形上の主張が消えて、はじめてスケールの異常さがたち現れる。そういう点で住処の「原型」として白い家型を使ったのはうまいと思う。

まぁそれ以上に家型にしたのは表層的な表現を避けて、コンテンツじゃなくてシステムの方へ議論を持っていくためだろう。というより提案されたようなコンテンツ自体をシステムが生成していくシステムを設計した場合、コンテンツのデザインを直接すること自体ナンセンスか。システム、データベースとコンテンツの二層構造とかは東浩紀、ニコ動あたりのディスコースへの彼の興味、研究の賜物でしょうか。タイポライズは力技ですな。さすがです。家型からの派生の行方も見てみたくなります。


建築の設計ではなく、建築的な手法/言語を用いたシステムの設計が建築のコンペで一位をとる。

素敵です。



 

Jan 1, 2009

掃除機のドローイング








昨年最後にやったドローイングのプロジェクトをアップします。空飛ぶ掃除機です。
ライノで一旦掃除機をCGにビルドして、それをブフォってさせてから2Dにレイザーカットした後荒っぽくペイントしました。コンピュータードローイングにいかにそれ自体に固有価値があるっぽい、「アートっぽい」フィジカルなクオリティを融合するか(捏造するか)を目指したつもりです。チューター同士の議論で何回も「手描きとCGの対立」というディスコースが挙っていて、その二項対立の議論自体に挑発的に答える形で進めました(不純)。両方のツールを混用することで結果的に面白いコントラストができたと思います。
ファンタジーです。
ナームー。


space journalにももう若干のテクストをアップしました。



 

謹賀新年&移転しました。

明けましておめでとうございます。新年に合わせてブログを移転しました。

今年はCSMのコースも無事修了し、AAにも入りg86にも参加しと、去年にも増し変化しつづけの1年でした。学校の方はなかなか殺人的な多忙さで、このブログも更新すると言ったものの結構停滞気味、、、でしたが学校にももう慣れたので今年からは、いや今からフットワーク量二倍で回転します、転がります。

今年もよろしくお願いします。



 

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